教室紹介

教室沿革

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東京大学大学院眼科・視覚矯正科の沿革

 

安政5年(1858年)、神田お玉ヶ池(現・千代田区岩本町)に種痘所が開設され、「種痘館」と名づけられた。これが東京大学医学部の前身である。その後、「種痘所」「西洋医学所」「医学所」「海陸軍病院」「大病院」「医学校兼病院」「大学東校」「東校」・・・と改名したが、1871年(明治4年)8月、プロシアよりレオポルド・ミュルレル(外科)、テオドール・ホフマン(内科)が着任。ミュルレルが眼科学を兼任したことにより東大眼科開講となる。ミュルレルの退官後も眼科はシュルツェ、スクリバらドイツの外科学教授がしばらく兼任したが、彼らに指導・教授されてきた日本の眼科学は、梅錦之丞・須田哲造・井上達也・甲野 などが育ってきたことによって「日本人の眼科学専門研究者の時代」へと移り始める。

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河本重次郎 教授時代

1889年(明治22年)〜1922年(大正11年)

河本重次郎教授

1884年(明治17年)、ドイツに帰国したスクリバに代わり、梅錦之丞が眼科学教授に就任したが、病気により1885年(明治18年)12月に退任となったため、1889年(明治22年)3月、ドイツ留学から帰国した31歳の河本重次郎が同年6月1日をもって帝国大学医学部教授に任ぜられ、10月1日、眼科学教室主任を命ぜられた。以来、1922年(大正11年)3月の退官までの33年間、日本の眼科を世界の先進諸国の水準に近づけ、発展させるために力を傾注し”日本近代眼科の父”と呼ばれた。各種の眼病についての日本での第一報告は、殆ど河本によってなされており、また、検査法・診断法・治療・手術は河本の得意とするところで、食塩によるトラコーマ顆粒検出法・灌水前眼部検査法・河本式暗点計・トラコーマに雪状炭酸の使用・角膜フリクテン頓挫療法として結膜パクレン焼灼法・膿漏眼のパクレン焼灼法・角膜疾患に硫酸銅の結膜下注射・角膜葡萄腫に胆汁酸ナトリウムの注射・ピオクタニンの眼科的応用・眼瞼形成術・筋肉瓣による下垂症手術・鬱血乳頭に視神経鞘切開・白内障手術式・トラコーマの手術療法などに特色ある考察が少なくない。1891年(明治24年)8月には眼科で始めて医学博士の学位を受けた。

河本は退官後の1925年(大正14年)、ドイツ留学中に教えを受けたベルリン大学の眼科教授ユリウス・ヒルシュベルグから彼の蔵書を譲り受け、東京大学附属中央図書館に寄付している。この「河本文庫」は、ギリシャ、ローマ、アラビア時代の眼科に関する歴史書のほか、16世紀の有名な眼科医であるGeorg Bartischの本、18世紀の解剖学者たち(Johann Gottfried, G. Zinn, Antonio Scarpa)の貴重な著書、そして19世紀の眼科学上の発見を報告した数々の原著が多数含まれており、眼科学の「世界の遺産」であることを示している。

当時の教室員の主要研究

広田京衛右門
1885年(明治18年)、コカイン局所麻酔を患者に使用。その結果を「『コカイン』の眼科上における効用」という題で『東京医事新誌』(明治18年7月号)に発表した。コカイン使用は眼科の手術に大きな影響を与えた。
高安右人
1908年(明治41年)、今日「脈なし病」と呼ばれる最初の報告「奇異なる網膜中心血管の変化の一例」を発表。発見者の名をとって「高安病」と通称される。
保利眞直
戦争に関わる眼の研究で業績をあげ、「交感性眼炎」「後頭葉射創」「脳腫瘍における鬱血乳頭及び視神経炎」などの論文がある。また、1888年(明治21年)、フルオレスチンをはじめて診断上に応用し、また脚気の眼症状を論じた文章を『東京医学会誌』に発表。
小口忠太
1905年(明治37年)、後に「小口病」と命名される新疾患を発見。
水尾源太郎・中村文平
小口氏病の明暗順応による眼底の変色現象(水尾・中村現象)を発見・報告した。
甲野棐
眼科研究者として病理学的分野を率先開拓し、「脈絡膜結核及び網膜膠腫の組織」(明治25年)、「緑内障」(明治27年)、「結膜硝子様変性」(明治30年)、そして「網膜膠腫のゴルジー染色法」を発表(明治31年)。また臨床では硝酸銀の乱用を戒め、脚気の中心暗点を発見した。
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石原忍 教授時代

1922年(大正11年)〜1940年(昭和15年)

石原忍 教授

1922年(大正11年)6月、眼科学教室主任教授に、陸軍軍医医学校の教官をしていた軍医の石原忍が選ばれた。石原は色覚異常(色盲)の研究に力を注ぎ、1918年(大正7年)、片仮名・数字を用いた『石原式学校用色覚異常検査表』を作り上げた。また教室員とともに近視研究にも取り組み、国際試視力表の文字や数字を日本の一般人にも容易に読める文字や数字に改良した「万国式日本試視力表」を作成。現在も広く使用されているカタカナ視力表の基になった。

石原が色覚異常(色盲)のほかに力を注いだ実践的研究と呼べるものに、トラコーマの撲滅運動がある。わが国では明治・大正期を通じてトラコーマの患者が急増し、結核と並んで一種の”国民病”であった。1919年(大正8年)3月27日、結核予防法、精神病予防法とともに「トラホーム予防法」が公布されたが、この法案の骨子となった診断指針は石原の手によるものである。著書に、『近世眼科処方集』(1924年)、『小眼科学』(1925年)、『眼底図譜』(昭和7年)、『眼球図譜(上・下巻)』(1935, 1936年)、『日本人の眼』(1942年)などがある。

当時の教室員の主要研究

森永友泰
角膜知覚の研究で知られ、森永式角膜知覚計を考案。
宮下左右輔(分院)
1912年(大正元年)12月「匐行性角膜潰瘍の血清療法」の論文で東大の学位を得た。その他、近視研究や結膜炎の研究にも力を注いだ。
佐藤邇
文部省近視研究員として近視研究に力を注ぎ、近視の発生について水晶体屈折説をとなえ、屈折・眼軸両因説を主張した大塚任と学会を二分した(佐藤・大塚論争)。
萩原朗
眼球運動や立体視の理論などについて研究。1938年(昭和11年)1月20日、「ハプロスコピーの臨床的応用。(1)眼精疲労の研究、(2)仮性近視の治療」によって医学博士の学位を得た。
原田永之助
1926年(大正15年)、後に「原田氏病」と命名された新疾患を発見。「非化膿性脈絡膜炎の臨床知見補遺(急性瀰漫性脈絡膜炎に就いて)」を発表。
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庄司義治 教授時代

1940年(昭和15年)〜1950年(昭和25年)

庄司義治 教授

1940年(昭和15年)6月、眼科主任教授に就任。庄司は1921年(大正10年)10月から翌々年1月まで、ドイツ、イギリス、フランスへ留学し、その間、1922年(大正11年)7月、「眼屈折体の紫外線吸収に関する研究」によって医学博士の学位を得ている。フランス語による論文発表もいくつかあり、1933年(昭和8年)6月8日には、それまでの水晶体の研究とフランス医学関係の文献の整備・紹介などによってフランス政府からレジョン・ド・ヌール勲章を授与された研究者でもあった。1942年(昭和17年)3月には、第46回の日本眼科学会総会が東大内科講堂で開催された。当時の医局は戦時中と敗戦直後の、人手不足の困難な時代であったが、医局員とともに鳥類眼の研究や、原爆被害による眼疾患の調査などを行った。

当時の教室員の主要研究

加藤静一
鳥類眼調節機転に関する組織学的研究
山崎千里
軍用鳩の白色および赤色光線に対する暗順応曲線を完成。
油井直行
軍用鳩水晶体の発生学的研究
高野安雄
軍用鳩のビタミンA欠乏症の研究
佐藤邇
眼屈折度数分布曲線に対する考察
桐沢長徳(分院)
抗生物質による化学療法の研究。「薬剤の眼内移行」、「局所使用剤の眼障害度ならびに安定度」、「薬剤耐性の検討」などの業績を経て、眼科領域における局所化学療法の重要性を示した。
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萩原朗 教授時代

1951年(昭和26年)〜1964年(昭和39年)

萩原朗 教授

1950年(昭和25年)6月12日、中島實が東大眼科教授として赴任したが、わずか半年後の1951年(昭和26年)2月26日肝臓疾患で亡くなったため、同年9月、岡山医科大学の教授をしていたに萩原朗が空席となっていた主任教授に選ばれた。萩原の入局してからの研究テーマは主に眼球運動や立体視の理論など生理学的なものであったが、教授在職中の指導研究は多岐にわたり、(1)角膜に関する研究、(2) 外眼筋に関する研究、(3)ベーチェット氏症候群に関する研究など、教室内にいくつかの研究グループを作り、以降の教室の主要な研究の源流となった。また、日本の眼科領域の業績を広く国外に発表しようと『Japanese Journal of Ophthalmology』を創刊した。

角膜に関する研究

以前から萩原が関心を抱いていた自律神経系の研究の一環として、角膜の栄養神経を取り上げたもので、吉川義三(角膜の物理化学的性状の研究)、北野周作(角膜神経の胎生学的研究)、三島済一(角膜支配神経の栄養関係の研究)、江口甲一郎(ビタミン関係の研究)、深道義尚(アイソトープによる角膜新陳代謝の研究)らが各部門を分担して研究を行った。

外眼筋に関する研究

外眼筋の生理研究に、少なくとも日本では初めて筋電図を導入した。久保木鉄夫により研究が開始され、丸尾敏夫、石川哲らによって大成された。眼の筋電図(眼球運動)研究グループは、豊田慶尚、大本純雄、福田雅俊、岡本玉江、久保木鉄也、鴨打俊彦、百瀬博文、佐藤総一郎、石川哲、原田政美、林愼一、久保田伸枝、沈健生、小沢哲磨ら、各氏の研究に引き継がれ、発展していっている。

ベーチェット氏症候群に関する研究

1958年(昭和33年)、文部省の難病研究班長として萩原は、皮膚科・内科のスタッフとともに、当時難病といわれた「ベーチェット病」に取り組んだ。萩原から引き継いだ鹿野はこの研究をライフワークの一つとして取り組み、眼科学教室では、加藤格、小関茂之(分院)、古沢豪彦郎、外山勢都子、氏原弘、荒木誉達、増田寛次郎らもこれをテーマとして研究を発展させ、望月學、山下英俊らに引き継がれていく。

その他の研究

杉浦清治
硝子体器質に関する物理学的および電子顕微鏡的研究
岡田亘弘
水晶体の偏光光学的研究
福田雅俊
日本人調節力の年齢推移・水晶体の粘弾性など、眼の老年病学に関する研究
加藤淑子
涙腺支配神経の研究
三田澄夫
硝子体内液流の研究
茂木劼
ニコチン酸代謝の研究
原田政美
両眼視機能研究を引き継ぎ、弱視・斜視研究の草分けとなった。
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鹿野信一 教授時代

1964年(昭和39年)〜1971年(昭和46年)

鹿野信一 教授

1964年(昭和39年)4月、眼科学教授に就任。鹿野の長年にわたる研究は広範囲に渡るが、なかでもベーチェット病の研究は講師時代から積み重ねたものである。1964年(昭和39年)12月、ローマで開かれたベーチェット病国際シンポジウムにおいて、鹿野はそれまで苦労して集めた20眼の標本をもとに本疾患の初期から末期までの眼病理像を鮮やかに論じ、眼底の滲出性病変が血管を主たる病変の場と考えるとき、皮膚など他の病変と同じ範疇に入る変化であることを証明した。このシンポジウムでの発表は” Behcet’s disease” (Ed. Monacelli & Nazzaro)として2年後に刊行され、鹿野のベーチェット病の研究は国際的にも認められるところとなった。

鹿野の教授時代は、電子顕微鏡や新しい瞳孔計の導入など、それまでとは面目を一新した機器の導入によって研究方法の急速な発展を見たときでもあった。1969年(昭和44年)5月、鹿野は第33回日本眼科学会総会の特別講演「眼と自律神経系」において、電子顕微鏡、瞳孔モニター、スリットランプマイクロフォトメーターによる房水蛋白の微量測定などによって外眼筋の中に交感神経に対する反応があることを説いた。また、蛍光眼底撮影法と光凝固法をいち早く採り入れ、研究の集大成を清水弘一と共著のアトラス(Atlas of fluorescence fundus angiography)として1968年(昭和43年)に英語で出版。この研究において眼科学教室は世界のパイオニアとなった。その他、教授時代の業績として特筆すべきものとしては、大学紛争解決と同時にアイバンクの拡充と新しい治療法を開発したこと、緑内障の研究として前房隅角に関する研究をまとめ、『前房隅角図譜』を刊行したこと、文部省の糖尿病眼障害研究班の班長を務め、教室として糖尿病性網膜症に関する研究などに取り組んだことが挙げられる。また、ベーチェット病の病理および臨床の研究は鹿野の指導のもとで教室員らによって続けられ、厚生省の難病研究班が作成した「ベーチェット病の診断基準」の基礎となった。この診断基準は「JJO」に掲載されて世界の学会に紹介され、以降、世界中のベーチェット病の診断基準となっている。

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三島済一 教授時代

1971年(昭和46年)〜1987年(昭和62年)

三島済一 教授

1971年(昭和46年)4月、眼科主任教授に就任。三島の研究分野は主として角膜の生理・病理、房水産生の生理・病理に関するものである。1959年(昭和34年)7月から1年間ロンドンに留学し、Institute of Ophthalmologyのモーリス教授のもとでフルオロフォトメーター(緑内障研究に必要な、眼の房水産生の機能を調べる道具)の開発に従事した。ついで1960年(昭和35年)9月に渡米し、Eye and Ear infirmary, Retina Foundationで、角膜を切ったまま培養液中に生かしておく技術を開発。また角膜の持っている物理的定数(角膜実質の吸収圧、涙液と角膜の関係、非電解質に対する透過性など)を確定し、内皮細胞が角膜の透明性を保つために絶対必要であることを証明した。1968年(昭和43年)3月に東大助教授に任命されたため帰国したが、その後もこれらの研究は教室員らによって引き継がれ、発展していった。また1976年(昭和51年)、三島の働きかけによって東大病院に日本で始めての角膜移植部が設立された。

三島は器械・器具類を設計したり改良したりすることが得意で、眼科医のための手術用顕微鏡や多くの手術器具が開発・改良され、新しい手術手技の開発・手術の病態生理学の研究などに支えられ、三島教授時代から東大病院では眼科の手術法が大きく変わったと言われている。1980年(昭和55年)4月から三島は東大病院長の役職にも就き、それまでなかなか実施に漕ぎつけられなかった東大病院改築計画をスタートさせた。粗案には10万?(当時の2倍)・1200床規模への病院改築が盛り込まれ、また1983年春には本郷に地下一階、地上五階、延1万5000?の中央診療部(中央放射線部、中央検査部、輸血部、中央手術部などが入る近代的な組織)の建築が始まり、これを先触れとして本院・分院の総合計画が現実に動き始めた。また、『Japanese Journal of Ophthalmology』 (JJO)誌の編集を引き継いで国際雑誌として再出発・発展させ、日本の眼科の研究業績を世界に紹介する上で大きな役割を果たした。

三島の時代には、それぞれの専門研究チームによる研究体制が定着し、実績を上げた。当時の研究グループには次のようなものがある。

緑内障研究グループ

三島は当時千葉大学の眼科講師で国際的に活躍していた北澤克明を助教授として招聘し、以来脈々と続く東大の緑内障部門の礎を築いた。三島は緑内障薬物動態の解明と手術療法の改良に注力し、昭和57年の国際眼科学会では緑内障手術の特別講演を行った。また、昭和63年には日本緑内障学会を創立、初代理事長として日本の緑内障の発展に貢献した。三島、北澤の指導の下に、高瀬正彌、堀江武、高橋修、新家眞、白土城照、土坂寿行、呉輔仁、弓田彰、松元俊、山本哲也、竹中康雄、中野豊、山上淳吉、小関信之、鈴木康之らが活躍した。

眼の動態薬理学の研究グループ

三島は涙の研究をしていた関係で、以前から眼に入った薬の動態に興味を持っていた。実際の研究には、まず小室苑が参加し、その後この系統の研究は塚原重雄、高瀬正彌、長瀧重智、菅谷真、大原国俊、新家眞、松元俊、白矢勝一、張明哲、瀬戸千尋、江口秀一郎、北野滋彦らに引き継がれた。

神経眼科・眼球運動研究グループ

当時助教授だった小沢哲磨は、主に眼球運動を中心に神経眼科に関する研究を深めてきたが、この研究テーマにそって内藤誠、藤野貞、岡本新生郎、岡本道香、大平明彦、後藤公子らが研究を行った。

網膜の研究グループ

1974年(昭和49年)から76年にかけて、厚生省特定疾患・網膜色素変性症調査研究班の班長を勤めていた三島のもとで、大庭紀雄はこの全国的な研究のとりまとめを行った。網膜疾患、視覚の臨床電気生理、色覚の研究は、谷野洸、岡本道香、岡島修、飯島裕幸、平戸孝明らのメンバーで進められている。

角膜・角膜移植研究グループ

三島の角膜の研究を引き継いだ谷島輝雄は2年間アメリカに留学し、とくに角膜移植を専門に学び、1978年(昭和53年)11月には角膜移植部の助教授になった。この研究テーマは太田陽一らにより進められ、澤充、新家眞、水流忠彦らに引き継がれた。

プロスタグランディン・ぶどう膜疾患一般・ベーチェット病―起炎物質研究グループ

このグループの研究対象は基礎的な研究から、眼の炎症・外傷、ぶどう膜炎、インドメサシンの開発など、多岐にわたっている。鹿野教授時代のベーチェット病に対する研究を引き継いだ増田寛次郎は、その他起炎物質に対する研究のリーダーともなった。特に増田が、人間の眼からもプロスタグランディンを検出したことが各界から大きな注目を浴びた。

糖尿病・眼病理研究グループ

このテーマは堀貞夫、山下英俊、鹿児島武志、北野滋彦、山本禎子、三島宣彦、早川和久らが研究をすすめた。

分院=網膜芽細胞腫研究グループ

箕田健生は、分院の講師・助教授時代を通じて眼の悪性腫瘍、特に小児に多い網膜芽細胞腫の研究の第一人者となり、またぶどう膜転移癌や網膜剥離の研究(全国統計調査)にも打ち込み、当時まだ一般的でなかった硝子体手術などを積極的に取り入れて、難治性の網膜剥離に対する治療を研究していった。その研究は小島孚允、戸塚清一、中村昌生らが引継ぎ、順次進めていった。

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東大分院眼科のあゆみ

 

明治時代、内務省の所管であった医術開業試(医師試験)の試験場として、また一方では無料で官費をもって患者を診療するため、1897年(明治30年)7月、東京麹町区1丁目3番地に内務省医術開業試験附属病院が設立され、所在地の名称によって「永楽病院」と通称された。これが東大附属病院分院の前身である。1903年(明治36年)3月、医術開業試験の業務が文部省の管轄となると、永楽病院も文部省に移管され、その5年後の1908年(明治41年)6月には小石川区雑司が谷120番地に新築移転されたが、大正の初め頃から法規の改正により医師試験受験者は急減し、もはや医術開業試験のために病院を存続しておく必要がなくなってしまったため、永楽病院は廃止され、1917年(大正6年)、この永楽病院の土地と建物の大部分が東大に無償で交付されることになり、その年8月1日をもって東京帝国大学医科大学附属医院分院が創設されることになった。創設当時の診療科目は内科・外科の2科目で、産婦人科や耳鼻咽喉科、皮膚泌尿器科は外科で診療していたが、初代の分院長に任命された塩田広重は、従来はすべて無料であった患者診療の一部を私費・一部を無料というふうに制度を改め、この収入を財源として建物の修繕や診療科目の新設などをはかり、1918年(大正7年)9月には耳鼻咽喉科が独立、1926年(大正15年)3月には眼科が新設され、ここに分院眼科の歴史が始まるのである。

歴代分院眼科医長には本院から助教授が就任した。戦前・戦時中の東大に女性の入学は認められず、本院では他の学校で医学を学んできた人たちは眼科に入局できても男女に関わらず「介補」と呼ばれ、一般の医局員とは権利・義務に差があったが、本院と違って分院は、その開設当初から男女差や出身校による差別が無く、昭和一ケタ時代の入局者はほとんどが女性であった。戦時中もその傾向は変わらず、そのためアットホームな雰囲気があった。医局員も小人数であったため、そして分院全体が比較的小ぢんまりとしていたために医局の内外ともに情報がよく行き届き、共同研究などが行われやすいという特徴があった。また、1965年(昭和40年)まで日本弱視斜視研究会(後に日本弱視斜視学会と改称)の事務局は分院医局内に置かれており、この頃の分院眼科は弱視斜視研究のセンター的存在であった。日本弱視斜視研究会の活動が原動力となり、1971年(昭和46年)わが国で初めて視能訓練士法が制定され、国立小児病院に付属視能訓練学校ができた。

2000年(平成12年)10月、本院の新入院棟が竣工となり、2001年(平成13年)4月には分院の総合病院としての機能は解消・改組され、本院と分院は統合されることとなった。思い起こせば、その基本計画は三島教授の病院長在職時代に決定されたものであった。眼科では、三島教授時代から本院の助手が分院におもむき、一定期間(約6ヶ月)ローテーションして臨床の交流をするシステムが確立されており、本院=増田教授、分院=望月助教授の時代になってから、こうした交流をいっそう緊密にするために、分院に入局した人たちも、それぞれ一定期間本院に行くことが制度化されていた。こうした交流があったからこそ、”本院・分院一体化”の事態にもスムーズに対処していけたと言えよう。

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増田寛次郎 教授時代

1987年(昭和62年)〜1997年(平成9年)

増田寛次郎 教授

1987年(昭和62年)4月、眼科学教室主任教授に就任。増田は、はじめ緑内障を中心に研究を続けていたが、当時としては全く新しい概念であった「偽房水流出Pseudo Facility」の測定を手がけて以来、眼の生理学的研究にも興味を持ち、1977年(昭和52年)9月、日米科学者交換プログラムに選ばれ、コネチカット州にあるエール大学の眼科および視科学教室に留学すると、眼の薬理学・眼のバイオロジーの研究分野で世界的な権威である主任教授のマービン・シアーズ教授のもとで研究に従事し、新しい技術を使って眼の炎症時の病態・前房水中のタンパクの動態を調査研究した。このように、増田の専門分野・主要研究内容は房水の動態から始まり、眼の炎症――特にぶどう膜炎、眼の薬理学、眼手術のバイオロジーへと拡大していった。

エール大学時代に韓国や中国などのアジア諸国の研究者たちと親しくなったことは、帰国したのちに増田がこれらアジア諸国との研究交流を深めるきっかけとなり、こうした交流の経験から、たとえばアジア系人種とヨーロッパ系人種との眼の病気の差とか、薬の効き方の差など、研究すべき課題も多いと考えた。それまでの教授・助教授たちが国際的な学会・会議といえばほとんど欧米に出かけることが多かったのに対し、増田は講師時代から欧米諸国のほかに、とくに80年代になってから中国や韓国、マレーシアなどのアジア諸国から招待講演を依頼されることが多くなったのが、眼科学教室としての大きな特徴でもある。

当時の眼科学教室で研究・開発された器械・器具や治療法には次のようなものがある。

1)レーザーフレアセルメーター:前房の炎症の程度を、前房のチンダル現象を利用して定量的、他覚的さらに非侵襲的に測定する器械で、澤充により開発された。

2)エンドスコープ(イメージファイバー):眼内のあらゆる局所を、直径0.9mmの太さの内視鏡を使って見ることができる。これは眼の外、眼球の後ろも見ることができ、1988年から試験的に使用されている。江口秀一郎、内田研一が研究。

3)原田病に対するステロイドの大量投与療法。増田寛次郎、谷島輝雄らが研究。

4)ベーチェット病に対する免疫抑制剤、特にサイクロスポリンA療法。増田寛次郎、中島章、浦山晃、望月学らが研究。

5)緑内障に対するレーザーを使っての手術法、および5-FUなどの免疫抑制剤を使って手術の成績を格段に上げる方法。白土城照、山本哲也、北沢克明らが研究。

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新家眞 教授時代

1997年(平成9年)〜2010年(平成22年)

新家眞 教授

入局初期には三島済一教授の指導でフルオロフォトメトリーによる房水動態の研究を行い、その後は眼内諸組織を対象とする幅広い薬理学研究に従事した。1983年から文部省長期在外研究員として渡米し、スタンフォード大学でD. M. Maurice教授の下で主に角膜の生理、房水動態の研究を発展させた。帰国後は緑内障・眼薬理を専門として幅広い研究を行いながら臨床や手術、教育にも精力的に従事し、1993年、日本人眼科医として始めてAlcon Research Institute Awardを受賞、1997年4月、眼科学教室主任教授に就任。

  • 眼底から反射するレーザー光のスペックルパターンを応用した眼血流測定装置の開発及び眼循環の研究(九州工業大学情報工学部 藤居 仁教授、玉置泰裕准教授、永原 幸講師らとの共同研究)
  • 多治見緑内障疫学調査(多治見スタディ)とその後の久米島町民眼科疫学調査(久米島スタディ)において、本邦眼科領域としては初の疫学調査を主導(日本緑内障学会、琉球大学眼科との共同研究)
  • 緑内障では眼にとどまらず中枢性の神経障害を生じることや、眼圧下降以外の神経保護治療の可能性を動物モデルや臨床研究によって示す(岐阜薬科大 原 英彰教授、相原 一講師等との共同研究)
  • 緑内障眼に於ける画像及び視野の解析方法の研究(富所敦男講師らとの共同研究)
  • 薬物内包可能なナノ粒子(高分子ミセル)を眼科領域で初めて研究に用い、正常組織障害を最小限にとどめた光線力学療法や遺伝子導入を動物モデルで確立(東大工学部  片岡一則教授、玉置泰裕准教授らとの共同研究)

など多くの研究成果をあげた。

日本眼薬理学会理事長、日本緑内障学会理事長、日本眼科学会理事長、Asia-Oceanic Glaucoma Society 理事長、World Glaucoma Association会長などを歴任し、2001年第21回日本眼薬理学会、2003年第14回日本緑内障学会、2008年第112会日本眼科学会総会、2010年第33回日本眼科手術学会総会、2010年第11回Glaucoma Research Society Biennial Meeting (Kyoto)、2011年第4回World Glaucoma Congress(国際緑内障学会) (Paris)、2014年第29回Asia-Pacific Academy of Ophthalmology総会(Tokyo)を主催するなど、わが国の緑内障、眼科全体に大きな業績を残した。

この間、三島済一教授時代に確立された専門研究グループの活動は積極的に支援され、又2002-2008年の間角膜組織再生医療寄付講座(山上聡准教授)が併設された。

角膜・角膜移植研究グループ

天野史郎、山上聡、臼井智彦、三村達哉等により角膜内皮再生、角膜移植免疫、Ocular Surface再生をメインテーマとした研究が行われた。又宮田和典元講師の指導下で角膜形状解析その他の幅広い臨床研究が行われた。

網膜研究グループ

玉置泰裕、柳靖雄、入山彩等が中心となり、細膜Stem cell、網膜色素上皮、脈絡膜新生血管等に関する分子生物学的研究、黄斑変性に関する実験的、臨床的研究、Drug-delivery systemの研究が行われた。

眼循環研究グループ

永原幸、富所敦男、石井清、間山千尋らにより、サル実験緑内障眼に於けるin vivo眼血流解析をメインとした種々の実験的、臨床的研究が行われた。実験緑内障サル眼に於ける血流測定は世界的に見ても2-3ヵ所でしか行い得ないユニークな研究であった。

眼薬理研究グループ

相原一、村田博史が中心となり、世界的にもユニークなマウス眼圧測定法や、生体内網膜神経節細胞観察法を開発、ノックアウトマウスやトランスジェニックマウス、培養網膜神経節細胞を用いて新たな眼圧下降薬や神経保護薬の研究が行われた。

緑内障画像・視野研究グループ

富所敦男、国松志保、齋藤瞳らにより、新たなSpectral-domain OCT機器の開発や疫学データの解析等幅広い臨床研究が行われた。又鷲見 泉によるSumis VRQoL Questionnaireが開発された。

ブドウ膜炎研究グループ

蕪城俊克、藤村茂人らにより実験的ブドウ膜炎に於けるケモカイン受容体を中心とした研究、ベーチェット病の新たな治療薬の開発等が行われた。又高本光子は学内外の緑内障研究者、人類遺伝学教室と共同して、正常眼圧緑内障のGenome-wide association Studyを行いCDKN2BAS遺伝子の関与を同定した。

神経眼科研究グループ

林恵子らによるSD-OCTを利用した臨床研究、澤村裕正らによるサルの大脳視覚経路の電気生理学的・解剖学的研究が行われた。

糖尿病網膜症グループ

加藤聡、福嶋はるみ、重枝崇志らが中心となり、糖尿病眼合併症、特にその前眼部病変の一つとして白内障手術に関する臨床的な定量的研究が行われた。まだ糖尿病網膜症のスクリーニング検査方法の確立の研究も行われた。全身病変との関連では、冠動脈疾患と糖尿病網膜症との関連、妊娠と糖尿病との関連などの臨床研究が行われた。

ロービジョングループ

加藤聡、柳澤美衣子(ORT)、落合眞紀子(ORT)らを中心として、VFQ-25を用い、ロービジョン患者の生活不自由度を定量化し、現状の視覚障害による身体障害等級の問題点を明らかにした。

新家眞教授時代の教室の仕事をもとにして大鹿哲郎、天野史郎、玉置泰裕、富所敦男、臼井智彦、柳靖雄が各々2000年(第5回)、2002年(第7回)、2005年(第10回)、2006年(第11回)、2010年(第15回)、2011年(第16回)にロートアワードを受賞した。又天野史郎、大鹿哲郎、玉置泰裕、山上聡、相原一、富所敦男、が各々2002年(第106回)、2004年(第108回)、2006年(第110回)、2007年(第111回)、2009年(第113回)、2010年(第114回)の日本眼科学会評議員会指名講演を行い、日本眼科学会評議員会賞を受賞した。

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天野史郎 教授時代

2010年(平成22年)〜2014年(平成26年)

2010年5月に眼科学教室教授に就任。これまでの主な研究歴としては、1989年より東大の角膜グループに所属して、角膜神経再生や術後の角膜内皮の変化などの臨床研究・基礎研究に携わる。その後、ハーバード大学の関連病院であるBoston Children’s Hospitalで血管新生研究の大家であったJudah Folkman教授(故人)のラボの中の眼科部門を担当していたAnthony Adamis先生の研究室で角膜における血管新生とvascular endothelial growth factor(VEGF)の関わりについての研究、VEGF発現に対する活性酸素種や糖化最終産物の影響に関する研究などを行う。帰国後は、東大眼科に戻り、新家教授のスタッフとして、角膜移植や角膜再生医療の臨床での実践と基礎研究を行ってきた。現在の専門は、角膜再生医療、角膜移植、角結膜疾患診療、屈折矯正手術、ドライアイなどである。

現在、東大病院の眼科には、角膜、網膜・硝子体、緑内障、ぶどう膜、神経、斜視弱視、腫瘍など、眼科のあらゆる領域のスペシャリストが多数おり、眼科すべての領域で高いレベルの診療を実践しているが、今後も現在の診療レベルにとどまることなく、世界的にみて第一線の診療レベルを実践するために、角膜再生医療を始めとした先端的な診療に積極的に取り組んで行く所存である。眼表面の再生医療はすでに臨床で実践していますが、角膜実質および内皮の再生医療は、いまだ世界のどこにおいても臨床で実践されていない。培養角膜内皮細胞移植、角膜実質再生を実現することを抱負の一つとしている。